2015年11月8日日曜日

日本の音大に行くべきではない理由   (その7)

7.日本の音大はモラルのないコピー文化が蔓延している
私は1981年、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団首席奏者のアロイス・バンブーラ氏と知り合い、その後4年間にわたって氏のレッスンを受けることになる。アロイス・バンブーラは1934年から1982年まで、ナチスによってオーケストラを追われた期間があったものの足掛け48年にわたってSKDの首席トロンボーン奏者を務めた。その、アロイス・バンブーラが1960年から63年にかけて執筆したのが3巻からなる教則本「トロンボーン教程」"Die Posaune"である。







バンブーラと知り合って、私は早速この教則本を入手して学び始めたのだが、その際に意外に思ったことがある。日本の有名なトロンボーン奏者であるI氏のトロンボーン教則本の序文と、アロイス・バンブーラの"Die Posaune"の序文がまったく同じものだったのである。


野田彰氏翻訳のバンブーラ日本語版と、I氏の「トロンボーンメソッド」 
I氏は元N交響楽団の首席トロンボーン奏者で、東京藝術大学や国立音楽大学の講師を歴任し、日本のトロンボーン界では大物である。そのI氏が最初大手の楽譜出版社から出版し、その後は小さな出版社から出版を続けた「トロンボーンメソッド」の序文が"Die Posaune"の序文を単に翻訳してコピーしたものをそのまま使っていたのである。しかも、この序文はトロンボーン奏者となるための身体的条件から楽器の歴史、呼吸法までに及んでいてかなり膨大なものである(コピーは序文のみで楽譜の部分についてはまったく違うものである)。
序文の最初の部分。左が野田彰訳、右がI氏のもの 
バンブーラに聞いてみたが「何も聞いていないし知らない」との事だった。I氏はドイツ語はできないし、この序文の出典については何の説明もない。しかし、内容を見れば見るほど、これは完全なコピーであって「勝手な引用」ですらない。
マウスピースに関する説明の箇所のページ、右がI氏のもの 
ドイツ統一後の1991年、私は統一されたホフマイスター社と"Die Posaune"の日本での出版に関する契約を結んだ。そして、野田彰先生に翻訳を依頼したのであるが、出版を引き受けてくれる出版社が現れずに出版は挫折し、関係者にだけ50冊見本版を頒布したにとどまった。"Die Posaune"の序文を勝手に翻訳して使った「トロンボーンメソッド」がその間に何冊売れたかは私には知る由もない。時は1991年、日本に帰国して日独楽友協会の設立準備にかかっていた私はI氏と事を構えるつもりもなく、"Die Posaune"日本版の前書きに「この教則本の序文は大変優れているので日本の著名なトロンボーン奏者が自らの教則本にほぼ全文を引用しているほどである」と記載するにとどめた。I氏からの説明も謝罪も、もちろん今に至るまで何もない。

日本の音大に行くべきではない理由   (その6)

6.日本の音大にとって一番大事なのは、学生が学費を払うこと

日本の音大にとって一番大事なこと、それは学生(たいていはその親)が多額の学費を払ってくれることだ。学費を払って大学にお金をもたらしてくれるお客を「ミルクカウ」という。一部の大学には学費の割引や免除の制度があるが、これはあくまで「本学にはこんなに素晴らしい学生がいる」ということを宣伝するための制度であって、苦労して頑張っている学生を支援するための制度ではない。特待生などのほとんどは入学前から特待生として入学できることが決まっていて「君は芸大にでも入れるけれど、うちの大学に来れば学費免除で勉強できるよ」と先生に誘われてくる場合が多い。

最近では各音大ともその他に「特別◯◯コース」などという名称の、演奏家として将来有望な学生だけを集めたコースがあるが、逆に言えばこのコースの学生に優れた環境を与えるために、他の学生が高い授業料を払っていると言っても過言ではない。そして、その割合はせいぜい20人に一人かそれ以下である。

学費が払えなくなった時、国公立の大学では事情により一定の猶予や免除の制度がある場合もあるが、私立の場合は「辞めていただくしかない」大学がほとんどだ。

Yさんのお父さんが急死したのは大学2年の秋だった。前期後期学費を分納していたYさんは後期の学費が支払えなくなってしまったため、大学に相談したが「学費が払えない以上やめてもらうしかない」だった。主科担任を始めいろいろな人に相談したが、誰も助けてくれなかっただけでなく、急に冷たくされたりすでに学生ではなくなっている様な扱いを受けた。日本の音大は、お金が全てなのである。

Yさんは翌年ある公務員の吹奏楽団に入るが、そこで待ち受けていたのも日本の音大と同様のパワーハラスメントだった。日本の音大と音楽関係の職場で受けた心の傷で、Yさんはまもなく自宅療養を続ける生活に入った。