2014年10月6日月曜日

「知の欺瞞」から「知の義憤」へ

日本では「評論家」が育たないと嘆いておられる友人がおられる。

そもそも「評論」で「食おう」なんて考えるのが土台無理な話だけど、日本には芸術の価値や倫理に言及する様な「評論」がほとんど存在していないと思う。過去には加藤周一や丸山真男の様な人が一部行っているが、どんな酷い演奏を行ったり、倫理的におかしな事が行われていても一度有名になってしまって楽壇を牛耳っている人を批判する様な評論家はまず見たことがない。どちらかというとべた褒め。

かつては宇野コーホー先生が朝比奈隆を褒め称えていたが、ドイツ語もイタリア語もほとんどできない日本人が高級車のブランド料として年間10億円のスポンサー料と引き替えにヨーロッパ最高のオペラハウスの音楽監督の地位を手に入れて、自分自身は年間数回しか指揮をせず、しかも「フィガロ」や「ドン・ジョヴァンニ」など基本レパートリーでは聴衆の嘲笑を買って酷いブーイング(オランダ人も)。そもそもレパートリーハウスでは練習無しで振らなくてはいけないオペラを指揮するために自分だけの練習をさせたり、挙げ句の果ては「塾」と称して自分が練習するためにプロジェクトを如何にも人に教えている様な顔をして長期間やってから現地に乗り込んでいく始末。

この人の在任中はシーズンはじめの日程からオーケストラピットの並び方まで酷いことになっていた。もちろん、倫理面だけではない。この人は古典音楽の基本的なメトリックや小節、和声構造をまるっきり理解していないのは演奏を聴けばすぐわかることなのに、音楽後進国で一度お山の大将になった人は誰も批判しない。東電と同じで批判すればスポンサーが付かない、仕事が来ないから。

どこかの歌劇場の音楽監督も就任以来2シーズン「肩の故障」を理由に一本もオペラを振らず、その代わりオーケストラの演奏会ではヘビーなロマン派の交響曲を指揮しまくっている。救いがたい平均律耳、様式感の欠如と政治的な腹黒さはこの人も変わらないのに、歌劇場の音楽監督、国立音楽大学の主任教授、地方オーケストラの音楽監督、首都の有名オーケストラの正指揮者の地位を独占、演奏は「高く評価」されている。

本来、生活がなくなろうが命を狙われようが、こういった人たちを倫理的にも音楽的にもきちんと批判することが評論家の務めで、シューマンでもハンスリックでも、ヨアヒム・カイザーでもノーマン・ルブレヒトでも信念に基づいて批判を行い、楽壇もマスコミも誰かが彼らの反対意見をしっかり見て、同意している。

日本で「評論」が成り立たないのは陰でどんなに多くの不正、セクハラ、パワハラ、そして何と言っても音楽的に無価値な騒音が排出されていても馴れ合い、依存体質、隠蔽、によって社会が成り立っているから。それは「直ちに健康に害が無い」からと言って看過して良い問題ではない。今までも「日本のクラシック音楽界は間違っている!」と言ってきた人はいたが、そういう発言はすべて無視されていた。政府やマスコミがこぞって「原発安全神話」を築いてきたのと同じだ。その社会が今、音を立てて崩壊しようとしている。

寧ろ、これからの若い人たちにこそしっかり基本的な美学や哲学を勉強してもらい、本物の「評論」「批判」が出来る様な社会になってくれなければ日本は間もなくクラシック音楽界で笑いものになるだろう。

私ももう、口を閉ざすのはやめた。