2012年2月6日月曜日

京都市交響楽団(4)         ファイルが持ち去られる

広上氏は練習場に入ったが、練習はなかなか始まらなかった。新旧事務局長はじめ交替する役員が1人3分ほど挨拶したからだ。オーケストラの練習時間がいかに貴重な物か知っている私はかなりやきもきした。ご存じの方もあると思うが、マーラーの時代のウィーンと違ってプロのオーケストラの練習時間という物は、短縮することはあっても伸びることはない。予定の時間を3分も過ぎよう物なら団員は立ち上がって帰ってしまう。サービス残業などもっての他だ。勤務時間無制限で残業も一切付かないマネージャーとはまったく違うのである。私も紹介されたが「辞令交付式」の際にも挨拶していたので(その時来ていない団員も多かったが)自己紹介は名を名乗って「何か問題点があったらご相談下さい」と言っただけで、挨拶は10秒で終えた。

離任する吉田事務局長は通常の挨拶だったが、新任の並川哲男事務局長は挨拶が終わると「これは強制ではないのですが」と前置きしてから「今年度から団員の皆さんに、公演終演後、お客様のお見送りをお願いしたい」と告げた。大阪のあるオーケストラで、公演終演後団員がホールの入口に並んでお見送りをして好評だというのである。

指揮者の広上氏が会場入りして待っているのに、練習は10分以上遅れて始まった。この日から京都コンサートホールでのスプリングコンサートと、大阪シンフォニーホールでの演奏会、2公演分の練習が入っていたのでスケジュールはタイトだった。しかも京都と大阪でダブっているプログラムは「ラプソディ・イン・ブルー」だけ。それも京都は小曽根真氏、大阪は山下洋輔氏がソリストだった。京都ではジュニアオーケストラのメンバーとの共演などが入り、大阪公演はメインが「悲愴」だった。

練習開始後事務所に戻った私は、初めて並川氏に意見した。「並川さん、せっかくのお話しに水を差すようで申し訳ないのですが、オーケストラが公演終演後にお見送りをするかどうかと言うのは、オーケストラの品格に関する重要な問題です。市の決定だとしても年度が始まったばかり、事務局内で話し合いもなしに、いきなり発表するというのはいかがな物ですか?」。これに対して並川氏の話は「これは強制ではない。やりたくない人はやらなくても良いのだから、いちいち相談する必要はない」というものだった。

私が反対な理由は概ね以下のようなことである。
まず、オーケストラは公演終演後、楽器を片付けなくてはならない。片付けにかかる時間は楽器にもよるが、楽器係が搬出してくれる打楽器や、大型楽器、ぬぐってケースに入れれば終わりな物もあれば、分解して内部の水分を取ってケースに収めなくてはならない物もある。高価な楽器を楽屋に置きっぱなしにして出てくるのは心配だ。オーケストラが立ち上がれば聴衆は出口に向かうので楽屋から出口までの距離にもよるが通常楽器を片付けて出口まで走ってきても、かなりの数の聴衆はすでにホールを出てしまっている。楽器に事故が起こったりするリスクを冒してまでホール出入り口に走るのはどうか?

次にシーズンと照明、ホール内の温度などにもよるが聴衆が快適に音楽を聴ける温度を優先しているコンサートホールの舞台はとても暑い。ほとんどの人が汗をかいているし、演奏が終わったら演奏者は本来いち早く着替えたいのである。

そして、これについては人それぞれの意見があろうが、私の反対する最大の理由はオーケストラの団員が終演後客席に向かって立礼するのは、伝統的スタイルとして最大礼であり、拍手が終わって舞台を後にする時に各自が一礼するのは良いとしても、団体客の見送りをする場末の温泉旅館の仲居よろしくホールの玄関に並んで見送りをすると言うのはオーケストラの品格にかかわる問題なのである。N響も読響もやらないし、もしベルリンフィルやウィーンフィルでそんな提案をする事務局長がいれば、仮に「強制ではありませんが」と言ったところで恐らく即時解任されるだろう(ちなみにヨーロッパのオーケストラでそんな事をするところはない)。京都市交響楽団は日本のオーケストラの中でも非常に伝統と格式のある、格調高いオーケストラである。私はこのような「悪しき習慣」を受け入れて欲しくなかったし、それは京響のためにならないと真剣に思ったのだった。

オーケストラの団員は演奏に全身全霊を傾けている。終演後、舞台裏に退出する時はぐったりしているし、リラックスしたいのだ。ホールの玄関まで狭い通路を走っていって、聴衆にスマイルを振りまく余裕など本来ないし、あるべき物でもない。第一知り合いと話し込んだりすれば聴衆の退出が終了するのが遅れる。下手をすると退館時間が押してしまうことすらあり得る。私に言わせれば、オーケストラが終演後ホールの玄関でお見送りをするなどと言うのは醜悪な上に百害あって一利なしなのである。

しかし、私は上記のような反対意見は並川氏に言わなかった。単に「重要なことだから、事前にご相談いただきたかった」。と言っただけである。しかし、内心この人はオーケストラの団員の立場や気持ちがわかっていないのではないか、とは思った。

しかし後で考えるとこの「お見送り」は京都市幹部が「オーケストラ団員の忠誠心を確かめることができる」という陰湿でしたたかな下心が込められていることは、まだわからなかった。

そしてこの日、私が1週間かかってようやく集めた様々な資料が入ったファイルが、デスクの上から何者かによって持ち去られ、1週間分の仕事が最初からやり直しになった。


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