2012年1月27日金曜日

ウィーンでの邦楽演奏会が命取りになった

そうした中、アートマネージメントの調査で知り合ったウィーン・コンツェルトハウスのプロデューサーから、1993年秋にコンツェルトハウスで行われる演奏会に邦楽器の演奏家を紹介して欲しいとの依頼を受ける。1993年、ウィーン・コンツェルトハウスではいくつかの現代音楽のシリーズを予定しておりその中でベルギーの作曲家アンリ・プッスールの邦楽器だけ(箏、尺八、三味線)のために作曲された作品「金閣寺」の演奏が予定されていた。その為にオーストリア側が出演料、航空運賃、滞在費のすべてを負担して日本の演奏家三名をウィーンに招きたいというのだった。プッスールの作品はシューベルトザールで演奏され、その他に邦楽だけの演奏をモーツアルトザールで一回行って欲しいとのことだった。

しばらく音楽の世界に身を置くとわかるが、この申し出は破格の条件だった。というのも、自動車産業などと違い音楽の世界では日本側が一方的に海外からアーティストを招いているのが現状で、日本のオーケストラや邦楽演奏家などが海外でツアーを行う場合、ほとんどが自ら持ち出し、ノーギャラで「演奏させて頂きに」行くか、文化庁、国際交流基金、地方自治体、スポンサーなどが経費を負担して、つまり招聘する側はほとんど何も払わずに行われているのがいまだに現状だからだ。もちろん、ごくわずかな有名ソリストや指揮者は例外であるが。

私は若手の演奏家に依頼することも考えたのだが、せっかくの機会になるべく良い演奏家を連れて行きたいと思い、まず箏演奏家の宮下伸氏に声を掛け尺八と三味線については宮下氏に人選を依頼することにした。これが致命的な判断ミスとなった。宮下氏は山本邦山氏ら一流の邦楽演奏家と度々共演していたし、演奏家としては現代作品の初演なども数多く行っている。しかし、宮下氏によると「一人20万円ほどのギャラでは一流演奏家は誰も行かない、私が学科長を務める高崎芸術短期大学(後の創造学園大学)の教員から人選する」ということだった。確かに出演者からしてみると、ギャラの出所が日本側かオーストリア側かと言うことはどうでも良く、単に金額の多い少ないで判断されるらしい。しかし、オーストリア側から矢の催促が来る中で人選はまとまらず、出発数ヶ月前になって宮下氏から「尺八は小池哲二(後の堀越哲二)学長、三味線は近藤幸子教授を同行したい」という連絡を受けた。私は7月からバイロイトにおり、その後ミュンヘンの総合文化施設ガスタイク(ミュンヘンフィルの本拠地、フィルハーモニーを含む大規模施設)でインターンを行う準備のため日本に戻って調整を行うことはできなかった。

私は急に不安になってきた。小池学長の尺八の演奏は聴いたことがないが、あまり良い話は伝わってきていなかった。一方この仕事はオーストリア側から初めて正式に依頼された仕事で、この仕事の正否がその後のオーストリアでの私の評価に大いにかかわってくる。しかし宮下氏からは「まだ3ヶ月もある。毎日みっちり練習するので大丈夫」と言う答えが返ってくるだけだった。

演奏会の10日ほど前にウィーン入りした私の目に、すでに町中に貼られている演奏会のポスターが飛び込んできた。ウィーン・コンツェルトハウスの自主企画であるからポスターなども相当の枚数が用意される。一行は演奏会の前々日にウィーン入りし、いよいよ前日のホールリハーサルが行われた時、私は気を失いそうになった。小池氏の尺八はアマチュアレベルで、しかも楽譜は読めないと言うことがわかったのである。有名演奏家だからと言って宮下氏を信じて人選を任せきってしまい、一人一人の演奏を事前にチェックしなかった私の完全なミスである。

コンツェルトハウスのプロデューサーも顔面蒼白になった。彼がプッスールに電話し、この状態で演奏を行って良いかどうか問い合わせることになった。幸い作曲者は演奏に同意してくれ、翌日の演奏会は行われることとなった。しかし、翌日の演奏会は予想通り惨憺たる結果となった。尺八のパートは完全に五線譜に作曲されているが、小池氏は延々とインプロビゼーションを繰り返して、他のパートを妨害しただけだった。客席の最前列にはオーストリアの現代作曲家達に混ざって、武満徹ら何人かの日本側の音楽家も座っていた。「穴があったら入りたい」というのはこういう事を言うのだと、その時はっきり思った。幸い、楽屋を訪ねて苦情を言う人もいなかった。小池氏はオーストリア側のプロデューサーに「アイアムソーリー」と言った。この人が謝罪の言葉を口にすることはその後二度と無かった。

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