2012年1月30日月曜日

堀越学園で働く

後の創造学園大学、高崎芸術短期大学の母体となる堀越学園は堀越久良、嶋子夫妻が1966年、幼稚園を運営するために設立した。東京の堀越学園とは別団体である。1968年に高崎保育専門学校、1981年は高崎短期大学音楽科が設立された。作曲家入野義朗氏の遺志を受けて洋楽科と邦楽科を併設し教授陣には作曲家一柳慧氏、箏の沢井忠夫氏など著名な音楽家が名を連ねた。建学の理想とは裏腹に学園の運営に異変が起きるのは1980年代後半に小池哲二氏(小池哲二、小池大哲、堀越哲二、堀越大哲すべて同一人物)が副学長に就任した時だ。

堀越夫妻には実子がいなかったが、関係者の話では「どうしても血のつながっている人間に学園の運営を譲りたい」と小樽商科大学を卒業して大阪府吹田市の職員となっていた小池氏を養子とし、まずは事務長として堀越学園に迎え入れた。本来芸術専攻でもなく、芸術系の大学の学長となるような器でもなかった小池氏だが、まもなく自ら副学長に就任し、カリキュラムを含む学校の運営を独占するようになる。1988年には美術科を増設し、名称を高崎芸術短期大学としたが、当初から設備や教職員の数などが大幅に不足していた。

高崎芸術短期大学では学長の思いつきで日本庭園「水琴亭」の造営や年に数回の学園祭など様々なイベントが繰り返され、ことごとく失敗に終わっていた。学生の誘致につなげようと始めた「高校生国際音楽コンクール」では上位入賞するような優秀な学生はこの大学には寄りつかず、漫画家のやなせたかし、詩吟の笹川鎮江と学長が利用できそうな人物と知り合う度に部門を増やし、収拾が付かなくなっていた。海外の学校制度に無知なため日本の「高校」に該当しない年齢の受験者がいたり審査にも学長自身が口出しして審査員とトラブルが絶えなかった。小池氏が学長になるとまもなく一柳氏や沢井氏のような著名な教員はほとんどがこの学校を去った。多野郡の寺院から「三福像」なる物を借りだして「三福庵」なる物を建立し、高崎高校近くの校地に井戸を掘って「三福庵の水」という水を汲んで「ガンに効く」などと言って売り出したのもこの頃だ。

私の仕事は「オーケストラの指導」だったが、この「堀越学園オーケストラ」も前々年度に学長の思いつきで始めたものの、当然のことながら指導者もいないのでまったくうまく行かず、翌年太田ジュニアオーケストラの南伸一氏を非常勤で指導に招いたが、学長と対立して一年でやめさせてしまい、94年の春は非常勤講師ですらないアルバイトのような人が週に一日だけ来ることになっていた。ヴァイオリンやコントラバスなどは専攻の学生が2学年で1人ずつしかおらず、専科の学生でオーケストラができるような状況ではまったくないのに、ピアノや声楽、箏などの学生の副科に、保育専門学校の生徒まで必須単位にしてオーケストラに参加させていた。その上、1年生、2年生を別々の時間にしてあるので、本来履修している時間の前後に任意で参加させてやっと各楽器がある程度揃う程度だった。

私は1994年3月中に数回学校を訪問して、前年度までの状況、履修者の人数やレベル、楽器や楽譜の状況を詳しく調べた。

管楽器は専攻の学生で何とか人数が足り、足りないところも中高のブラス経験者がある程度の人数いるので揃えることができた。弦楽器は韓国製の1本1万円くらいの(当時の韓国製は本当に酷かった)ヴァイオリンが30丁ほど、その他の楽器も一応の本数がリースされていたがいずれもあまりに酷いので返却してドイツ製の物をその半分ほどの本数入れてくれるように要求した。

3月の最終週からは毎日出勤した。4月からは専任講師として週5日出勤することになった。当時は事務は比較的しっかり機能しており、初日には健康保険証などの必要書類を渡された。雇用契約はなかった。学長からは「高崎に骨を埋めるつもりで来て下さい」「高崎に引っ越して欲しい」などと言われたが、そう言われてきた教授や講師のほとんどが半年から3年ほどで退職したり、解雇されたりしていることを知るのにそう時間はかからなかった。

4月になって実際授業が始まると、副科の学生も意欲が高く弦楽器でも1年間で1ポジションの音階くらいは弾ける学生が多かった。そこでヴァイオリン、ヴィオラ、チェロだけ月に一回国立音大のOBを呼んで楽器毎に指導してもらうことも決まった。週に一日、金曜日に1コマ1時間半の授業が1年生、2先生と連続であるが、可能な限り1年生は2年生の時間、2年生は1年生の時間も参加するように呼びかけて、実際かなりの数の学生は連続で授業に出席した。但し、レッスンだの行事だのが入ってかなりの数の学生がまとめて抜けることもあった。

私が授業として持ったのはこの金曜日の2コマだけだが、授業の準備にはものすごく時間がかかった。まず、楽器のうちすぐに使える状態の物は半分もなかった。弦の切れた弦楽器、音のでない木管楽器、バルブの動かない金管楽器などが沢山あり、授業に来ても座っているだけの学生が半分くらいいて、交替で楽器を使っていた。弦が間違ったペッグに巻かれていて、チューニング中に切れてしまう物もあった。4月中にリースされていた韓国製の楽器はすべて引き取らせ、ドイツから届いた弦楽器については専門の職人を呼んで再調整し、管楽器は主に私が楽器庫にこもって調整した。それより非常に手間がかかったのは、1ポジションでほぼ弾けるように、様々な曲の弦楽器のパートを書き直し、それに伴って欠けている弦楽器の部分を補うように管楽器のパートも書き直すこと、つまり演奏するすべての曲をほぼ全面的に編曲しなければならないことだった。授業時間以外は学長の気紛れで学校案内やコンクールの要項など様々な印刷物の制作「国際教育研究所」の管理などにかり出された。印刷物は校正刷りができてから何度も修正が入るのが当たり前だった。他の教員は授業を放り出して学生集めの営業に行かされていたが、私は免許を持っていないのでそれが割り振られないだけましだったかも知れない。学校見学の前などは全教員と学生が動員されて「除草」を行ったりした。
週5日の出校日は8時の「朝礼」までには出校してタイムカードを押し、毎日高崎を22時40分に出る、上りの最終新幹線で家に帰った。新幹線での通勤が認められるのは運が良いらしかった。

連休が明けてしばらくするまでには、この学校で何が起こっているかが概ねわかった。

(続く)

2012年1月29日日曜日

再び採用を取り消される

1994年3月、ミュンヘンから戻った私に埼玉県芸術文化振興財団の準備室から呼び出しがあった。県の部長という方の説明は、以下のような物だった。
「さいたま芸術劇場は前の知事(畑やわら)の肝いりで作られたが、知事が替わって現在の知事(土屋義彦)は芸術劇場の運営にあまり乗り気ではない。そこで予算がカットされて職員も減員されることになった。28人採用されるはずだった職員は22人に減らされるので今回の採用は見合わせる。杦山さんには申し訳ないが、次回に採用がある時には優先して採用するので、今回はご了承頂きたい」。採用を取り消された6人の中に、私が入ったことについて、武蔵野音大を自主退学したり、悪い評判を立てられていることがどれほどマイナスだったかは知る由もない。高崎でのシンポジウムで、創設間もないオーケストラアンサンブル金沢の音楽家達の将来を心配した私だったが、奇しくも僅か3年後に自分自身が、自治体の首長の交代による文化政策の変更による犠牲者となった。リンクを読んで頂ければわかるが、上記の二人の知事はいずれも談合や汚職などにかかわり、大変に評判の悪い人たちだった。

また、こうした施設運営に役立てたいと日本人として初めて、自ら大枚をはたいて行ったミュンヘンでのインターンによって得られた経験や知識が、郷土の文化振興に役立てられる機会はなくなった。ミュンヘンでの経験は誰でも出来る物ではなく、長期にわたってのミュンヘンフィルの楽員との交流、複雑な専門用語を理解できるだけのドイツ語力が有ってこそ得られた物だ。施設のハード面での運用や、契約書、アンケートやマーケティングリサーチなど、いずれも音楽そのものについてかなり理解した上で、高度なドイツ語力がなければ理解できない。その後も文化庁などから「実績のある」方々が「公費で」派遣されているが、元々の音楽に対する知識と、必要充分な語学力がなければ短期間の留学がどれほど役に立つかは疑問である。

もちろん「次回に採用がある時には優先して採用するので」というのはエクスキューズであったことは言うまでもない。こういう約束は担当者が替われば通常反故にされる。

そうした中、高崎芸術短期大学から「講師として働いてみないか?」という申し出がある。
前の年のウィーン・コンツェルトハウスでの演奏で、すっかり私の顔を潰したことに対する埋め合わせである。4月から始まるはずだった仕事のなくなってしまった私は、喜んで講師の話を受ける事にした。ワンマン学長の独裁が不安ではあったが「あれだけ人に大恥をかかせて、迷惑を掛けた自覚があって埋め合わせをするのだから、そう酷い扱いはするまい」と思っていたのが甘かったのがわかるまで、数週間とかからなかった。

(続く)

2012年1月28日土曜日

ミュンヘン、ガスタイクでのインターン

2晩目のモーツアルトホールでの伝統的な邦楽のみの演奏会はそこそこに客も入り、ポピュラーな作品だけであったことから反応もそう悪くなかった。翌日、新聞に2回の演奏会の批評が出た。はっきり言って疑問符のつらなる酷評であったが、ドイツ語のわからない一行は「新聞に出た!」と言うことだけでご満悦であった。しかし1晩目の演奏会のできに関する自覚症状はあったようで、私が「私はもうウィーンで仕事はできません」と言うと流石の小池氏もばつが悪そうな表情を浮かべていた。

小池氏はウィーンでは美術館にもオペラにも興味がないようだった。宮下氏の提案で翌日から2泊、一行をザルツカンマーグートに案内した。まだ「Hotel Post」と言われていた「白馬亭」の新館に着くと、3日間ほとんど寝ていなかった私は打ち上げを早めに切り上げて泥のように寝た。小春日和だったザルツカンマーグートは途中から雪が降り始めた。

一行が大満足で帰国した後、私は気の重い残務整理にコンツェルトハウスに向かった。本当はギャラなど辞退したいところだったがそうも行かなかった。インテンダントもプロデューサーも、どちらかというと私に同情してくれていたが、ヨーロッパから日本に招く演奏家についてはあれほどこだわりのあった私が「専門でない」というだけで、事前に演奏チェックをするなり他の人選をするなりキャンセルを出すなりしなかったのは完全にミスだ。ヨーロッパの演奏家だったら自分のパートナーを選ぶに当たっては自分自身の評価がかかわってくることがわかっているし、こういう人選は絶対しない。しかし、日本の演奏家は情実の方が大事になる事があるのだと言うことがわかった。

話は前後するがこの年の春、私は新しくできる「埼玉県芸術文化振興財団」の採用試験を受けた。試験は1次、2次とあってアートマネージメントばやりだったこともあり、1次試験は1000人以上が受験し、川越の大きな大学のキャンパスを使って行われた。内容は1次が通常の公務員採用試験のような内容、2次が別日程で「埼玉県の芸術振興には何をすればよいか」の様な小論文だった。会場に着くと皆公務員試験の例題のような問題集を抱えているので、何も準備していなかった私は驚いたが、ともかく1次も2次もパスして採用枠の28人の中に選ばれた。私は翌年の業務開始前にドイツのアートマネージメントを勉強しておこうと、レーデル師匠やミュンヘンフィルのメンバーを通してミュンヘンの複合文化施設「ガスタイク」のインテンダントDr.ハインツに連絡を取り、翌年1月から2ヶ月間ガスタイクの事務局でインターンを行うこととなっていた。インターンは僅かな報酬が出るが、もちろん航空運賃や滞在費は私費である。ウィーンから日本に戻り、様々な準備をして12月末再びミュンヘンに向かった。インターンは1月はじめから始まった。

ガスタイクはドイツでは珍しい複合文化施設でミュンヘンフィルのホームグラウンド(当時はまだチェリビダッケがシェフ)であるフィルハーモニーの他、3つのホール、市民大学、市立図書館が同居している。マネージメントはそれぞれ独立しているが、催しは連携が図られて調整される。ガスタイクでの業務は主にマーケティングリサーチ、アンケートをどのような方法で行うか、アンケートの質問項目や回収方法の検討などだった。聴衆の嗜好や家からの距離、支出できる金額などを詳細に調べることが重要で、定期的にアンケートが行われてマーケティングリサーチの分析は自前で行われる。

こうした業務の他にハード面での施設を地下深くから天井裏までくまなく案内し、説明してもらった。ガスタイクは当時まだドイツでは珍しい完全空調の施設で冷暖房だけでなく湿度も一定に保たれている。壁面や大きなガラス面にも暖房装置があり、ホール内の空気は地下の水槽を通して加湿される。水槽内には巨大な紫外線灯が並んでいて加湿用の水は除菌される。ガスタイクが面しているローゼンハイマー通りはSバーン(近郊区間を走る電車)の主要路線で、8系統のSバーンが数分おきに通過するが、その騒音がホール内に伝わらないようにするためにも細心の注意が払われている。

フィルハーモニーは東京芸術劇場などと同じようなくさび形のホールで、舞台の高さ、反響板や音響反射板の形状や向きは実際にミュンヘンフィルがここで演奏しながら調整し、何度も変更を加えられてきた(実際には大ホールの音響には今でも不満の声があるが)。

チェリビダッケは特別の場合を除いてすべての練習を1回目から公開していた。もちろんすべての練習がフィルハーモニーで行われた。私のミュンヘンでのトロンボーンの師匠、D.シュミットはミュンヘンフィルの首席トロンボーン奏者だったし、レーデル師匠も懇意にされていたので私もかなりの回数練習を見に行ったし、チェリビダッケにも紹介されていつも大きな温かい手で握手してくれた。チェリビダッケは日本人が大好きだったが、私はオーケストラの練習や公開レッスンでのチェリビダッケが少々苦手だった。しかしそんな事はもちろんおくびにも出さない。ヴァントなど他の指揮者の公開されていない練習も見ることができた。

結局この2ヶ月で私はかなりインサイダーとみなしてもらえるようになった。インターンが終了する時にはインターン終了の証明書と共にガスタイクの巨大な設計図、ドイツで一般的に主催者が演奏家と交わす各種契約書のひな形など沢山の資料をもらった(後に火災で焼失)。

しかし3月に帰国した私を待っていたのはがっかりするような知らせだった。

(続く)

2012年1月27日金曜日

ウィーンでの邦楽演奏会が命取りになった

そうした中、アートマネージメントの調査で知り合ったウィーン・コンツェルトハウスのプロデューサーから、1993年秋にコンツェルトハウスで行われる演奏会に邦楽器の演奏家を紹介して欲しいとの依頼を受ける。1993年、ウィーン・コンツェルトハウスではいくつかの現代音楽のシリーズを予定しておりその中でベルギーの作曲家アンリ・プッスールの邦楽器だけ(箏、尺八、三味線)のために作曲された作品「金閣寺」の演奏が予定されていた。その為にオーストリア側が出演料、航空運賃、滞在費のすべてを負担して日本の演奏家三名をウィーンに招きたいというのだった。プッスールの作品はシューベルトザールで演奏され、その他に邦楽だけの演奏をモーツアルトザールで一回行って欲しいとのことだった。

しばらく音楽の世界に身を置くとわかるが、この申し出は破格の条件だった。というのも、自動車産業などと違い音楽の世界では日本側が一方的に海外からアーティストを招いているのが現状で、日本のオーケストラや邦楽演奏家などが海外でツアーを行う場合、ほとんどが自ら持ち出し、ノーギャラで「演奏させて頂きに」行くか、文化庁、国際交流基金、地方自治体、スポンサーなどが経費を負担して、つまり招聘する側はほとんど何も払わずに行われているのがいまだに現状だからだ。もちろん、ごくわずかな有名ソリストや指揮者は例外であるが。

私は若手の演奏家に依頼することも考えたのだが、せっかくの機会になるべく良い演奏家を連れて行きたいと思い、まず箏演奏家の宮下伸氏に声を掛け尺八と三味線については宮下氏に人選を依頼することにした。これが致命的な判断ミスとなった。宮下氏は山本邦山氏ら一流の邦楽演奏家と度々共演していたし、演奏家としては現代作品の初演なども数多く行っている。しかし、宮下氏によると「一人20万円ほどのギャラでは一流演奏家は誰も行かない、私が学科長を務める高崎芸術短期大学(後の創造学園大学)の教員から人選する」ということだった。確かに出演者からしてみると、ギャラの出所が日本側かオーストリア側かと言うことはどうでも良く、単に金額の多い少ないで判断されるらしい。しかし、オーストリア側から矢の催促が来る中で人選はまとまらず、出発数ヶ月前になって宮下氏から「尺八は小池哲二(後の堀越哲二)学長、三味線は近藤幸子教授を同行したい」という連絡を受けた。私は7月からバイロイトにおり、その後ミュンヘンの総合文化施設ガスタイク(ミュンヘンフィルの本拠地、フィルハーモニーを含む大規模施設)でインターンを行う準備のため日本に戻って調整を行うことはできなかった。

私は急に不安になってきた。小池学長の尺八の演奏は聴いたことがないが、あまり良い話は伝わってきていなかった。一方この仕事はオーストリア側から初めて正式に依頼された仕事で、この仕事の正否がその後のオーストリアでの私の評価に大いにかかわってくる。しかし宮下氏からは「まだ3ヶ月もある。毎日みっちり練習するので大丈夫」と言う答えが返ってくるだけだった。

演奏会の10日ほど前にウィーン入りした私の目に、すでに町中に貼られている演奏会のポスターが飛び込んできた。ウィーン・コンツェルトハウスの自主企画であるからポスターなども相当の枚数が用意される。一行は演奏会の前々日にウィーン入りし、いよいよ前日のホールリハーサルが行われた時、私は気を失いそうになった。小池氏の尺八はアマチュアレベルで、しかも楽譜は読めないと言うことがわかったのである。有名演奏家だからと言って宮下氏を信じて人選を任せきってしまい、一人一人の演奏を事前にチェックしなかった私の完全なミスである。

コンツェルトハウスのプロデューサーも顔面蒼白になった。彼がプッスールに電話し、この状態で演奏を行って良いかどうか問い合わせることになった。幸い作曲者は演奏に同意してくれ、翌日の演奏会は行われることとなった。しかし、翌日の演奏会は予想通り惨憺たる結果となった。尺八のパートは完全に五線譜に作曲されているが、小池氏は延々とインプロビゼーションを繰り返して、他のパートを妨害しただけだった。客席の最前列にはオーストリアの現代作曲家達に混ざって、武満徹ら何人かの日本側の音楽家も座っていた。「穴があったら入りたい」というのはこういう事を言うのだと、その時はっきり思った。幸い、楽屋を訪ねて苦情を言う人もいなかった。小池氏はオーストリア側のプロデューサーに「アイアムソーリー」と言った。この人が謝罪の言葉を口にすることはその後二度と無かった。

2012年1月26日木曜日

音楽祭の尻ぬぐいをする

企業メセナ協議会を退職後は再びフリーのマネージャーとして演奏会のプロデュースを行ったり、電通総研の依頼でヨーロッパのアートマネージメントの調査を行ったりすることになった。イギリス、アーツカウンシルオブ・グレートブリテンのハワード・ウェッバー部長は企業メセナ協議会在職中に知り合い、その後何度もオフィスを訪ねてイギリスでの芸術支援の資料を沢山もらった。バンベルク交響楽団事務局長のロルフ・ベック氏を頻繁に訪ねたのもこの頃だ。1990年代はドイツ統一の影響でドイツのオーケストラは多くが解散に追い込まれたりしたが、バンベルク交響楽団はベック氏のリーダーシップによって順調な発展を遂げていた。

こうした中1991年に日独楽友協会の演奏会に出演していた蜻蛉七月院という女性から「来年夏にヨーロッパとの交流を図るための音楽祭を行うので協力して欲しい」という要請を受ける。1992年8月に品川区の「きゅりあん」を1週間連続で借りて、日独楽友協会オーケストラの演奏会の他様々な演奏会を行いたい。出演者については杦山さんに交渉を任せたい、というものだった。蜻蛉女史は高級レストランを貸し切って頻繁にパーティーを行ったりして、私や他の音楽家達も何度も招かれた。帰りには何故か愛知県発行のタクシーチケットが参加者全員に手渡された。「愛知県が全面的に支援しています」と言うことだったが、愛知県の担当者が現れたことはなかった。

私は1991年9月にヘルシンキを訪れてヘルシンキ・ジュリアストリングスのゲーザ・シルヴァイ氏から「1992年8月にアジア演奏旅行を行うのだが、日本でも演奏できないか?」という問い合わせを受けていた。また、本来1991年12月のモーツアルト没後200周年に日本ツアーを行う予定であったアウクスブルク大聖堂少年合唱団も来日の意思を示していた。結局様々な交渉の末ヘルシンキ・ジュリアストリングスは自己負担でアジアツアーの途中3日間だけ来日すること、アウクスブルク大聖堂少年合唱団はコンツェルトハウス・ジャパンが招聘し、兵庫県の尼崎市や群馬県・栃木県の「日本ロマンチック街道」などで公演を行い、途中「きゅりあん」で1回だけの「ヨハネ受難曲」を、また日航機事故から7年目を迎えていた群馬県の上野村でモーツアルトの「レクイエム」を演奏することも決定した。
本来女声合唱ではなく少年合唱で演奏されるバッハやモーツアルトの宗教音楽を是非日本で演奏したいという私の無謀な意思もあって、さらにすでに決まっていたPMF音楽祭終了後、バイエルン放送交響楽団のメンバー13人に演奏に参加してもらう話まで付け、航空運賃の一部をルフトハンザが負担してくれることになった。ツアー中のハンドリングはすべて私が行うことになった。

ところが蜻蛉七月院女史は1992年5月頃になって突然「スポンサーが降りてしまったので音楽祭は中止して欲しい」と言い出した。ヘルシンキの団体もアウクスブルクの団体もすでにツアー全体の予定を組んで航空券の予約も済んでいたし、東京以外での演奏会をキャンセルすればキャンセル料が発生する。今だったら東京での演奏会だけすっぽりキャンセルするだろうが、当時の私にはこれだけのプロジェクトを自分の責任で立ち上げておいて、キャンセルするだけの決断はできなかった。結局会場費以外のすべての経費を私が個人的に負担して、予定通り演奏会を決行することになりしかも宣伝費の不足や実際開催できるのかどうかの交渉がぎりぎりまでずれ込んだことから莫大な赤字が出ることになった。

アウクスブルク大聖堂少年合唱団はドイツでは五本の指に入る少年合唱団だが、日本の主催者は少年合唱団と児童合唱団の区別もついてないようだった。ほとんどの主催者が「ドイツと日本の民謡」のようなプログラムを選んだ上「歓迎行事」と称してあちこちの市役所などでさんざんノーギャラの演奏を要求された。「歓迎行事」のお陰で日光から上野村に向かう途中宇都宮市役所での歓迎行事に参加を要求された少年達は、上野村に着く頃にはぐったりしており、気分の悪くなる子も続出して指揮者のカムラー氏は私に食ってかかった。上野村では合唱団のギャラの他には、バイエルン放送交響楽団のメンバー13人の入ったオーケストラに50万円しか予算が付けられないと言われた。これも私が持ち出すことになった。上野村に着くと「慰霊の園」には村出入りの葬祭業者が建てた豪華な野外ステージができあがっていた。葬祭業者には数百万円の経費が支払われたと言うことだった。

パンコンサーツ、メセナ協議会で働いた2年間の貯金がすべてなくなり、数百万円の借金だけが残ったのだった。ツアー中の合唱団の食費の支払いを巡って招聘もとのコンツェルトハウス・ジャパンと裁判になるというおまけまでついた。


2012年1月25日水曜日

オーケストラからの誘い

メセナ在職中は安月給だったが定時退局で時間はたっぷりあった。丁度この頃恩師、クルト・レーデルを指揮者に迎えてアマチュアの有志を集め「日独楽友協会管弦楽団」(はじめはトーキョードイチェフィルという名称で活動を始めるが、後に改称)の演奏を始めた。18歳の時に私が発起人となって「浦和交響楽団」を結成して以来だが、アマチュアオーケストラの運営というのはある意味プロよりむずかしい面がある。プロのオーケストラは通常自治体やスポンサーが付いて演奏収入を上回る赤字は補填してもらえる。奏者には通常チケットを売る義務はなく、オーディションを行ってプロとしての技術を持った音楽家を必要な人数雇っておけるし、人数が足りなければエキストラを頼む予算も出る。アマチュアオーケストラでは参加費を払って参加する演奏者が丁度良い人数必要だし、演奏者は自分でチケットも売らなければならない。会場費や印刷費がアマチュアだからと言って安くなることはほとんど無い。

しかし「レーデル先生の指揮で演奏したい」というアマチュア音楽家が沢山集まって、最初の演奏会の曲目はブルックナーの交響曲第5番に決まった。

企業メセナ協議会を去るしばらく前、1991年の夏に高崎で行われたオーケストラ関係のシンポジウムに参加した。壇上では新日本フィルハーモニー事務局長の松原千代繁氏が司会をして日本各地のオーケストラの実績が発表された。バブル絶頂期以来、日本のオーケストラのいくつかはスポンサーからの協賛金を人件費を含む経常費に充填する、かなり危ない運営を行っていた。協賛金というのは景気や企業の収益によって大きく変動する。バブルの頃にはメセナブームで常設のオーケストラは協賛金集めに事欠かなかったが、一部自治体関係のオーケストラなどはまだ協賛金を事業費に充てることすら条例などで認められておらず、動きが取れないところもあった。しかし、バブル期に協賛金をあてにして一気に給与を引き上げてしまった自主運営の団体のいくつかは、その後財政難に苦しむこととなる。

中盤に入って石川県音楽文化振興事業団の幹部が発足して間もないオーケストラアンサンブル金沢の成果について誇らしげに発表を始めた。私は少々違和感を感じながらその発表を聞いていた。というのも金沢在住の知人からオーケストラアンサンブル金沢の発足に至る経緯や、問題点について詳しく聞いていたからである。丁度同じ頃、埼玉県でも当時の畑やわら知事の気紛れからオーケストラ結成の話があり、結局あまりに非現実的なシミュレーションから立ち消えになったのであるが、石川県でも当初、人件費のシミュレーションをするのに「地方都市は物価が安いのだから給与は東京のオーケストラの70%ほどで良い」と言う計算をしたと言われている。なるほど生活上の出費は地方都市の方が少ないかも知れない。しかし東京圏をはじめ大都市圏の音楽家はオーケストラの正団員であればある程度レッスンなどの副収入もあるし、音大の講師を務める人も多い。他のオーケストラのエキストラもあればバブルの頃は高収入のレコーディングの仕事なども数多くあった。地方都市ではこうした副収入は限られている。みんなで分け合う「パイ」は小さいのだ。

もう一つは音楽好きの首長の肝いりで作られた楽団は未来永劫安泰なのだろうか?と言う点である。ちょうど埼玉県でもオーケストラ結成の話が立ち消えになったばかりである。オーケストラアンサンブル金沢は当時の石川県知事が指揮者の岩城宏之氏と意気投合して結成されたらしいが、上記の給与の話などからもわかるように、政治家に芸術経営はほとんどわからない。大阪センチュリー交響楽団への支援を打ち切った大阪市の橋下市長は最近大阪市音楽団の経営についても疑問の声を上げているが、もしこうした「音楽嫌い」の首長と政権が交代した場合、楽団が存続できるという補償はあるのだろうか?

石川県幹部の発言後、私は「給与面等でも不安がある地方の新しい団体を運営するにあたり、首長の交代などで団体が解散になったり、雇用条件が悪化することが無いように、若い音楽家の将来を財団はきちんと保証できるか?」という質問をした。会場がややざわめいて、幹部は「大丈夫だと思います・・・」というような回答をして壇上がやや鼻白んだ。司会の松原氏がフォローして下さったので、その場はあまり紛糾せずに先に進んだが、休憩時間になると私は興奮した若い音楽家達に囲まれてしまった。

「杦山さん、よくぞ言ってくれました!」「そういう考え方をする人を待っていたのですよ!」主に日本音楽家ユニオンのオーケストラアンサンブル金沢支部のメンバーだったがその他のオーケストラの人もいた。懇親会の席でさらにいろいろな話をうかがうことができた。

8月末で企業メセナ協議会に辞表を出し、9月はじめの日独楽友協会オーケストラの演奏会があった。演奏会にはオーケストラアンサンブル金沢のメンバーも参加していただき、その後レーデル氏はオーケストラアンサンブル金沢に客演指揮者として招かれた。終わるとすぐに、私はヨーロッパに旅立った。ハノーファーで演奏を行ったり、ハンブルクのマーク・アルブレヒトを訪ねたり、結局ヘルシンキまで行って沢山の友人や、音楽家達と出会った。

日本に戻ってまもなく、私は突然オーケストラアンサンブル金沢のチェリスト、ルードヴィッヒ・カンタ氏の訪問を受けた。カンタ氏と面識はなかったが「金沢ではまもなく事務局長が空席になる。オーケストラのメンバーの中に是非杦山さんに来て欲しいと言う意見があるのですが、受けていただけますか?」とわざわざ東京まで出向いて私に声を掛けてくれたのだった。私はもちろん喜んでお受けしますと言ったが、これはユニオンのメンバーが私を推薦するという意味であって、県がそれを承諾したわけではない。それどころかシンポジウムの席で誇らしげに発表をしていたところ出鼻をくじかれた財団の幹部は私のことを苦々しく思っていただろう。結局石川県はユニオンの推薦を受けた私を採用することはなかった。一方的にユニオンの主張を優先するような運営をすると思ったのだろうか?オーケストラにとっては経営の改善は経営側にとっても、働く側にとっても双方の利益になるはずだったのだが。

しかしオーケストラアンサンブル金沢ではその後団員の待遇が飛躍的に改善され、現在では大都市圏のオーケストラよりも恵まれた条件で活動している。私の発言がそのきっかけになったことは確信している。

これが一番はじめだったが、その後何度もオーケストラの運営の仕事につく機会が訪れる。しかしそれが実現することはなかった。

2012年1月24日火曜日

序、アートマネージメントで働く

私が2年間の留学を終えて日本に帰国したのは1987年の8月だった。帰国しても仕事の当てはなかったが偶然知り合ったヴァイオリン店でしばらくアルバイトをさせてもらえることになった。実は東ドイツのオーケストラで働かないかという話はあったのだが、当時の東ドイツのオーケストラの月給は700から900東マルク、現地で暮らして行くには充分だが何か果物か野菜でも食べたくなって西ベルリンに買い物に行けば(現地の人はそれすらできなかったが)すぐになくなってしまう金額だ。日本に里帰りしようと思えば何年も貯金するか、親に飛行機代を出してもらうようなことになる。

翌年の秋から数ヶ月京都でコンサートマネージメントの手伝いをすることになり、1989年の春に東京に戻ってからもフリーでコンサートマネージメントの手伝い(会場の裏方や、パンフレットやプログラムの印刷など)を行っていた。どこに行っても武蔵野音楽大学の同級生や先輩が私の「評判」を知っているオーケストラのオーディションなど受けたくなかった。通常オーケストラに入るにはいろいろなオーケストラのエキストラを務めて、日本で好まれる演奏法をよく知っておかなくてはならない。武蔵野音大で「悪い評判」を立てられた私をエキストラに呼んでくれるオーケストラはなかった。また、私は奏法も完全にドイツ式で「ドイツ管」と呼ばれる柔らかで弦楽器や木管楽器の音と良く解け合う楽器を使っている。ヤマハやバックなどの通常アメリカ管と呼ばれる硬質で金属的な音のするトロンボーンとは一緒に吹きたくなかったことも事実だ。

東京に戻ってから1年ほどの間に個人的にコンサートのプロデュースをし、かなり無理もあったが個人のリスクで海外から招いた音楽家の室内楽のコンサートのシリーズを行った。私が呼びかけて結成されたグループもある。バロックヴァイオリンの寺神戸亮、ガンバの上村かおり、チェンバロのクリストフ・ルセを「東京バロックトリオ」として売り出したのは私だ。クリストフ・ルセはこれが初来日となった。ウィーン室内管弦楽団のコンサートマスター、ルードヴィッヒ・ミュラーを中心に結成させた弦楽四重奏団はその後「アルクスアンサンブル」を経て現在は「アーロンクァルテット」として新ウィーン楽派の作品を中心とするレパートリーで押しも押されもしないウィーンの実力派だ。こうしたメンバーと共に主に長野や群馬の小さな主催者が開いてくれる演奏会の会場を回った。1回の演奏のギャラが15万とか、20万とか、そのくらいだったから飛行機代と僅かなギャラを払うと、手元にはほとんど何も残らなかった。

1989年の秋、ほぼ同時に中規模なコンサートマネージメント2社から求人の広告があり、面接を受けたところ両方に受かってしまった。片方はコンツェルトハウス・ジャパンという会社で当時はまだ年金や保険などがきちんとしていなかったのが不安だったのでもう一つのパンコンサーツと言う会社に入社する。この会社はホリプロダクションの子会社でクラシックのマネージメントの他音楽関係の書籍の出版などを行っていた。しかし実はここに罠が潜んでいた。親会社が大きいので年金や保険、福利厚生などもしっかりしていたのだが、丁度LPからCDに切り替わる頃に大量のLPレコードと組み合わせて出版した「ヘリテージオブミュージック」というクラシック大全集が大量に売れ残り、倉庫代だけでも膨大な赤字が出ていたのだ。

入社から3ヶ月は、海外からの演奏家を連れて1日も休みなく日本中を駆け回り、その間にクルト・レーデル教授をはじめ新たに知り合った音楽家も多い。クラシック音楽のマネージメントと、演奏会の企画はうまく行っているように見えていた。

ところが入社から1年を過ぎてまもなく、堀威夫氏ら親会社のホリプロ幹部はかさんでいる出版部門での赤字を理由にパンコンサーツを閉鎖することを決定した。もちろん、子会社であるパンコンサーツの社員である私たちには決定が知らされただけだった。世間ではモーツアルト没後200年のイベントが盛んに開かれバブル末期のクラシックブームの中、1991年1月にパンコンサーツは閉鎖される。入社後まだ1年半も経っていなかったし、出版部門での赤字は私には何の責任もないので抗議したら「AV製作本部に異動するならホリプロでそのまま雇用する」とのことだった。はっきり言って私はAVというのはアダルトビデオだと思っていたので固辞して退社を決めた。

パンコンサーツを退社してすぐに当時話題となっていた企業メセナ協議会に根本長兵衛専務理事を訪ねた。メセナは同様にバブル末期にしきりと話題になっていたし、根本氏は朝日新聞時代の父の後輩だったので父に電話一本入れてもらった。実は私はメセナ協議会自体で働きたいのではなくて、メセナ協議会の会員企業で直接芸術支援を行っているところに入りたかったのだが、事務局で人が足りないとかで有楽町マリオンの企業メセナ協議会で働くことになった。

通勤便利で見晴らしの良いオフィスだったが給料は一気に半分になってしまって苦しかった。ホリプロの子会社は残業代は一切付かないのだが、はじめから「勤務手当」だとかいう残業と休日出勤の補償みたいなものが出ていて、その上わずかだが出張旅費が出て、それで外食をすると休みがほとんど無い分だけ、食費はほとんどかからなかった。メセナ協議会は17時以降は割り増しの残業代が出る規定になっていたが、とても残業する気にはならなかった。それは仕事の内容が考えているような物とまったく違っていたからだ。

本来「芸術に詳しい人」を探していると言うことだったので、会員企業が効率的にメセナ活動ができるようにコンサルティングなどができるのかと思っていたが、実際にはメセナ協議会自体が何をしたらよいか、手探りで進めているような状況だった。それも会員企業がお互いにお互いの顔色を見ながら、なるべく縄張りを荒らさないように実績作りをしていた。事務局員にはほとんど発言権がなく「メセナ」という季刊誌を編集したり外国から招いてきたアートマネージメント関係の講師のシンポジウムを主催したりというものであった。実際には業務のほとんどが会員企業宛の会報やお知らせ、季刊誌の発送などで、これらをアウトソーシングせず、すべてを事務局員が総出で、長机を並べて、プリントを三つ折りにし、封筒に詰め、封筒を糊で貼り、切手を貼り郵便局に運んでいた。しばらくして流石に見かねて「料金別納郵便というのにするといちいち切手を貼らないで済みますよ」と言ったら上司の事務局次長はキツネにつままれたような顔をしていた。それでとりあえず、切手だけは貼らないで私が東京中央郵便局まで持っていって別納のはんこを押すことになった。封筒を全部使い切ってしまうまで「料金別納印」の印刷された封筒は作れなかった。

2月に入局した企業メセナ協議会事務局だが、8月に自主退職することにした。いくつか興味深いセミナーも聴講できたし、慶応大学で始まったアートマネージメント講座も聴講させていただけることになったが、ともかく作業のほとんどは封筒貼りばかりで、何かデータの収集とか、メセナの実例とかを研究できるわけでもなければ自分の意見を発表できる場もなかった。
しかしそれにもまして決定的だったのは、8月末の給料日に何気なくデスクの上に置きっぱなしにされていた事務局次長の給与明細だった。この人は永井道雄氏の紹介で港ユネスコから天下りしてきた人だが、フランス語ができると言うだけで芸術に何の知識も造詣もあるわけではない。それなら私だってドイツ語ができるし、少なくとも音楽の専門の勉強を6年間はしてきているわけだし、ヨーロッパでのアートマネージメントの実情にも詳しいわけだ。なんと、天下りで管理職に入ったと言うだけでこの人は一日中まったく同じ袋貼りの仕事をして、しかも「料金別納郵便」も知らないで何千枚という発送物にいちいち切手を貼って発送していたのに私の3倍強の、つまり手取り50万近い月給をもらっているのだった。その事実を知った翌日。私は辞表を書いて事務局を後にした。

(続く)

2012年1月22日日曜日

京都市交響楽団でのできごとについて

2009年1月、京都市交響楽団音楽主幹の新井浄氏から「是非京都市交響楽団に来て欲しい」という要請を受けた私は京都市市民文化室長平竹耕三氏らの面接を受け、同年4月京都市交響楽団に「副音楽主幹」として赴任しました。900億円を超える負債を抱え、財政再建団体一歩手前の京都市は京都市交響楽団の経営改善という課題を抱えながらバランスシートすら作成されておらず、芸術経営の専門家を欠いた運営が続く中、常任指揮者広上淳一とマネージャー荒井雄司の横暴な要求が続いていました。そんな中、何とか経営を改善しようと京響に乗り込んだ私を待っていたのは同僚達の無視、デスクから資料が持ち去られたりコントラバスをぶつけられるなどの露骨な嫌がらせでした。広上と荒井は専門的知識を持った人間が事務局に表れ、自分たちのやりたい放題ができなくなることを恐れ、京都市幹部に圧力をかけ続けました。

一度は「是非京都市交響楽団に来て欲しい」と頼んでおきながら一転して態度を翻した京都市は、わずか2ヶ月半後の同年6月、私に自主退職するように求め「自主退職しないなら解雇する。経歴に傷が付く。おとなしく自主退職するなら次の職場を紹介する」などと退職を強要しました。

日本のクラシック音楽界で私にふりかかった、様々な災厄について徐々にブログに書いていこうと思います。関係者については内部の人間なら誰でもわかることなので、特に必要のない場合は匿名とせず、すべて実名で記載します。

2012年1月20日金曜日

ケロイド


自分が2年生になって、管楽器の新歓コンパが行われるその日、学生部の古庄先生と仲地先生宛に「新入生に対する飲酒の強制と暴力行為を慎むようにさせてください。もし目に余る行為があればマスコミにリークすることも辞しません」という内容の要望書を出した。仲地先生は温厚な方だが要望書を読みながら顔色が変わった。新歓コンパに先立って古庄先生から注意があった。白けた空気が漂い、私を睨み付ける同級生もいた(その後数年間、管楽器の新歓コンパは中止されたらしい)。「何でお前がいるんだよ!」などと言う奴も居たが、私は参加費を払って自分は一滴も飲まず、ただその場にいた。多少の強制はあったようだが、前年度のようなことはなかった。1年生の練習室にポカリスエットなどを大量に置いておいた。

1学期はその他にこれといったトラブルもなく進み、私はブラスバンドからも外されたのでますます入間に行く日は少なくなった。そして予定通りオーケストラの合宿がやってきた。私はもうどうなっても良いという気もあったが、先輩達に無理矢理抑えつけられてやられるより少しはましな感じもあった。興味本位で同調している一年生もいた。

結局「儀式」は合宿最後の晩に同級生達の手によって行われた。

いずれにしろ、性器に劇薬を塗るというのは殆どレイプと変わらない。「キンカン」は虫さされの薬だが絶対に粘膜に使用しないように注意書きがある。主成分であるアンモニアが粘膜を壊死させる。はじめ酷い火傷になるが数日でかさぶた状に、かさぶたがはがれた後は一生消えないケロイドになった。裁判のことは頭をよぎったが、今ほど法律の知識があるわけでもないし、弁護士も知らなかったから相談もできなかった。

この手の「儀式」は社会心理学的には一種の擬似去勢行為である。被害者は「去勢」されることによって集団の一員となると同時に絶対の服従を強制されるのだ。私は吐き気と胃痛に苛まれるようになった。

2学期になってほとんど大学に行かなくなった私は結局、10月に退学届けを提出する。一応形だけは3月末まで学生と言うことだった。その後かなり長い間、私は武蔵野音楽大学時代のイヤな体験を夢に見るようになった。期待に胸をふくらませての入学、すべてが崩れ落ちる現実。学園祭での演奏やブラスバンドから外されたことなど。実際にあったことも、なかったことも。

私の退学後しばらくして、徐々に「合宿に行かない」という新入生がでて「困っている」という話を聞くようになった。しかし合宿とキンカンを拒否したのは、一部の新入生にとどまっているようだった。私より遥かに後の代の学生から「やられた」という話を聞くことも多く、結局の所まだ続いているのか、やめたのならいつを以て最終的にやめたのか、学校側が事実を確認しているのかどうかも、私のように心の傷を負って大学をやめざるを得なかった学生がどれほどいるのかもわからない。

先日、福井直敬学長宛に書留郵便を送ったが、何の返事もない。

極めて遺憾なことに、私はその後「武蔵野音楽大学でいろいろ問題を起こした、評判の悪い」人間になる。「問題を起こした、和を乱した、評判が悪い」という台詞だけが一人歩きして、他の音大の学生にまで伝わった。先輩諸氏からも疎まれるようになった。そういう状態がその後何年も続いて、私が留学から戻った後も変わることはなかった。「問題」というのが何かを聞こうとする人もいなかった。

十数年経って、武蔵野音楽大学の入学志望者が減っていることを耳にするようになった。この愚かな「伝統」を学校側が放置したことと、無関係ではないような気がする。

武蔵野音楽大学での新入生へのヘイジング(新入生いじめ)


結局、合宿はパスした。教官からも「残念だ」という一言を添えた暑中見舞いが来ていた。

しかし、夏が来る前に大きな変化が起こる。 ドレスデン・シュターツカペレが来日し、私は楽屋に日参していろいろな人と知り合ったが、最も重要なのはアロイス・バンブーラ教授と知り合ったことだ。

バンブーラ教授は来日公演のプログラムの内「魔弾の射手」しか乗っていなかったので、来日中3回もレッスンを受けることができた。 それ以外にも東京のあちこちを案内して差し上げた。もっとも教授はもう何回も日本にきていたのだが。

私は武蔵野音大で起こることにもはや興味がなくなってしまった。

あまりにレベルが違うのである。バンブーラ教授はレッスン料を受け取らず、毎回2時間近くレッスンしてくださった。これは、バンブーラ教授に限ったことではない。私が楽屋を訪ねて教えを請うた演奏家たちは、時間が有ればレッスンをしてくれたが、レッスン料を受け取った人はいなかった。その中にはチェコフィルのミロスラフ・ヘイダ氏のような偉大な教師が何人もいる。

そうこうするうちにトロンボーン会の合宿は「無事」終了する。私が行かなかったのは彼らすべてにとって本当に幸いだ。もし行っていたら彼らは法廷に立たなくてはならなかったろう。それも最悪の場合刑事被告人として(刑法204条=傷害罪、同206条=傷害現場助勢罪)。もちろん民事上の賠償責任は免れないし、監督責任者は職を失うことになっただろう。 私は私以前に誰も「告訴」を考えなかったことが理解できない。また、暴行を行う側も誰かが告訴したらどうしようと考えなかったのは恐ろしく無思慮である。 新入生を集団で抑えつけて、ズボンと下着を脱がせ、粘膜に塗れば酷い火傷、場合によっては壊死を引き起こすアンモニアを含んだ薬液を性器に塗布する行為は暴行傷害事件であり、告訴は被害者でなくてもできるのだ。しかも共謀共同正犯である。

秋口から大学に行くこと自体が面倒になってくる。行けば「お前はキンカンを塗られなかった」という羨望と怨嗟(これはまったくの逆恨みで、塗られたくないのなら集団で拒否すれば済んだのである)の声が待っている。キンカンを拒否したことがまるで犯罪者のようだ。

和声やソルフェージュや音楽史など、いくつかの必須科目だけ出席して昼頃には帰宅する日が続く。学園祭のブラスバンドは同級生達が勝手に降り番にしてくれた。

大学1年の冬休み、私は3ヶ月近くヨーロッパに渡る。初めての海外はフランクフルトまで片道約30時間かけて、カラチ乗り換えのパキスタン航空だった。しかもフランクフルトについてすぐにウィーン行きの列車に飛び乗って更に10時間近い旅となった。当時ウィーンにいた姉夫婦の家に2泊だけしすぐにドレスデンに向かった。いくつかの試験をすっぽかしてしまったので単位が取れなくなったが、もうどうでも良かった。

ドイツ語は初めての授業の時に講師が「君は僕より発音が良いねえ」と言うので、これはもう来なくていいと言うことだろうと思ってそれ以降行かなかったらやはり単位はもらえなかった。その代わり、ドイツで約1ヶ月間、ほぼ一言も日本語を話す機会がなかった私は、ウィーンに戻った時にはもうかなりドイツ語ができるようになっていた。

履修届を出す期限ぎりぎり、ゴールデンウィーク直前に日本に戻った私は武蔵野音楽大学に行き続けることを深刻に悩むようになる。親には高額の授業料を出してもらっている。できることなら日本の大学卒業資格は取っておきたかった。一方で、同級生と顔を合わせるのも毎日苦痛になってきた。ましてや、来年は江古田に行かなくてはならないと思うと胃が痛くなることばかりだった。江古田では卒業生の間にまで「武蔵野音楽大学の素晴らしい伝統であるキンカンを拒否し、集団の和を乱した酷い奴」という評判が広まっていた。あったこともない卒業生にいきなり難癖を付けられるかも知れない。こちらは相手の顔を知らないので、欠礼したりしたらさらに酷いことになる。

また、上級生達のファッションやしゃべり方も私を憂鬱にした。夏は殆どがアロハシャツ、冬は黒や茶色の革ジャンである。要するにチンピラと変わらない。私はかなりすり減ったが、まだ決定的に退学を考えていたわけではない。その決断を付けることになったのは、夏のオーケストラの合宿だ。これは1、2年生だけの合宿なので上級生は参加しない。しかし「杦山はキンカンがまだなので合宿で塗る」という話は私の耳にも入っていた。

(続く)

2012年1月19日木曜日

武蔵野音楽大学の新入生歓迎コンパ


私は酒が嫌いな方ではない。特に若い頃は馬鹿みたいに沢山飲んだし、飲めた。ビアホールに行くと大ジョッキを5,6杯飲んでやっと飲んだような気になった。沢山飲めるのが偉いような気がしていたので、特に大勢だと気が大きくなってますます飲んだものである。

だから、飲み会は嫌いじゃないが、まずは管楽器の新入生全員を対象とした新歓コンパでの上級生達の行為、それを黙ってみている教員達に激しい嫌悪感を感じることになった。
私は猥談も嫌いじゃないが、女性や子供の前で猥談をする奴は軽蔑する。酒を飲んで騒ぐのも良いが、歓迎される側が激しい嫌悪感を感じながら同席を強要されるような飲み会は最悪だ。 私が「特性カクテル」の一気飲みを拒んだのを見ていた上級生の何人かが向かってきた。ベルトを引き抜いてムチにして、口から泡を吹きながらかかってきた3年生は私に突き飛ばされて転倒した。会場は色めきだったので、まずいと思ったのか何人かの4年生が私を会場の外に誘導した。帰宅を促されたのだが私は「事態を最後まで見届ける」と言ってその場にとどまる。

更に一悶着起きたのは帰りの電車の中である。上級生達は車内でも乱痴気騒ぎを続けたのだ。他の乗客の乗り合わせた車内で手拍子、猥褻な歌詞の放歌が続く。先ほどの騒ぎが収まったばかりだったのでしばらくは抑えていたのだが、あまりの非常識に私は再びキレる。
周囲の乗客の視線をよそに、注意した私を取り囲んで怒鳴る、小突き回す上級生達、今度は同級生が止めに入って私は途中駅で降ろされる。捨てぜりふで見送る上級生達。
翌日、担任の教官に電話する。上級生達の行為を非難するためだが、逆に「上級生を注意するとは何事か!」と怒られる。 

まもなく、今度はトロンボーン科の新歓コンパが行われる。何か「芸」をやれと言うのでバッハの無伴奏ソナタをヴィオラで弾いてやろうと練習しておいたが、どうもそういう物じゃあないらしいことを悟る。

トロンボーン科の新歓コンパでは、某オーケストラ所属の同郷の大先輩と担任が私の非礼を上級生達にさっさと謝ってしまい、私はもじもじしているうちに手打ちとなってしまった。宴会芸は例によって卑猥な替え歌ばかりだったが(こういう替え歌はそういう好き者ばっかり集まっている肩の凝らない席で上手に歌うと結構面白いんだけどねえ)、私は座布団を5枚も重ねた上に正座してビールを3本続けてラッパ飲みしたらそれですんだ。3本目には教官からストップが入った。だらしない奴らめ。

数日するとまた問題が持ち上がった。私が「トロンボーン科の合宿に行かない」と言い出したからだ。
事のはじめは同級生のIが昼飯を食いながら「あれはキンカン合宿だからなあ」と言い出したことに始まる。

「キンカン合宿って何だ?」問いつめる私。
「だから、塗るのさ」
「どこに?」
「・・・・」

何でもキンカン楽器だからとおもしろ半分に下級生をつかまえて塗ったのがはじまりらしい。

何たる愚劣!何たる低能!

私は断固行かない!と同級生に表明したことからそれが上級生達にも伝わり「おまえ達が何とかしろ」と命令された同級生が連日放課後の説得に当たることになる。

曰わく、「あれは武蔵野音楽大学トロンボーン会の伝統であり、伝統は守らなくてはならない」。「そういう理由で合宿に参加しないと表明した新入生はおまえが初めてである」。「先輩もみんなやられたのだからお前もやられろ」。云々。

「上にやられたことを下にやり返す」徳川時代に醸成された日本人のもっとも卑屈なメンタリティだ。松本清張氏によると江戸時代の牢内で行われた様々な虐待が、新政府になってから陸軍の内務班に取り入れられたらしい。

先日「恩送り」という言葉を知ったが、これでは「仇送り」だ。

それは今まで毎年、新入生は腰抜けばかりでようござんした。俺はやられたことは、やった奴にやり返す。 
同級生の説得が失敗すると、今度は上級生による呼び出しが始まる。

そういう下らない理由で、江古田の地下室に出向かなくてはならないのはかなりのストレスである。そもそも、どこの世界に高い金を払って大学に入ってこれから勉強したり練習したりしなくてはならないのにチンコにキンカン塗られなくてはならない法があるだろうか?

「毎日お前の所為で何時間も話し合いだ」って「そんなこと頼んでねえっつうの!そんな下らないことで何時間も雁首揃えてる暇があったら練習しろっこのぼけどもがあ。だからT音大やK音大に抜かれるんだぁ!」 

とは言えないので、「すばらしい伝統」についてのありがたいお話を先輩諸氏から何時間も伺う有り難い毎日となる。

(続く)

日本の音大の知性と品性


私は本来音大に行くつもりはなく、いくつかの大学の西洋史学専攻を受けたがなぜか皆落ちてしまい、2浪することになってはじめて音大に行くことに決めた。 レッスンを受けていた先生に相談して受験するのは武蔵野音楽大学トロンボーン科に決める。

進学先を音大に決めたとき、設備の整った新しい校舎で学べることに胸をふくらました。私は楽器を始めたのは早かったが、音大受験にはブランクがあったし、ピアノもずいぶんやっていなかったし、演奏家になるのは難しいだろうと思っていたが、それならば音楽や音楽学の研究に専念しようと思っていた。ラテン語やギリシャ語、さまざまな音楽理論を身につけようと思っていたが、その気持ちは入学後すぐに全く裏切られることになった。

まず、ラテン語やギリシャ語は履修できないことがわかった。
音楽理論はほとんどが音大入学前には知識として知っていることだった。
演奏技術もほとんどの学生が私よりずっと未熟だった。

今から考えれば、ブラスバンド上がりで音大に行く人の多くが高校2,3年生ぐらいではじめて先生についてレッスンを受けるので、中学1年から先生についていた私とはかなり差があっても無理はない。

音楽や美術や文学や歴史、哲学などの話をする相手はいなかった。仕方がないので気に入った教官の部屋に入り浸ったが、相手も授業の準備があるから迷惑だし、その教官が毎日研究室にいる訳でもない。

さらにショックだったのは学生の知性である。
新歓コンパは新入生いじめとセクハラだけだった。舞台上に作った「お立ち台」に一人ずつ上がらせ、学籍番号と名前を絶叫させてから残飯やわさび、ソースなどをビールと日本酒に混ぜた「特製カクテルを」一気飲みさせるやりかたは、どのような経緯を経て陸軍内務班から私立の音大に伝わったのだろうか? (英国海軍から帝国海軍を経て伝わったという説もある)

それとも人間落ちるところまで落ちるとやることは同じなのだろうか?

私はこの儀式を拒否して壇上で上級生ともみ合いになる。口からヨダレをたらして殴りかかってきた上級生は地獄の鬼の群れに見えた。(続く)