2018年8月25日土曜日

ヨーロッパのインターナショナルスクールについて(6)

その年の春、このインターナショナルスクールの初代学長を開学直前に解任されたヨルゲン・Kが、オーストリアのニュース雑誌「News」に寄稿した記事によれば、ニュージーランドの億万長者リチャード・Cとウィーンの開発業者は共同で、19世紀に建てられた歴史的にも有名な医師の名を冠する保存文化財の建物の中にあり、美しい緑の公園に囲まれた本来は1億ユーロ以上の価値のある6棟のパビリオンのうち3棟を、「最低でも15年間学校として使用する」ことを条件にこの物件をウィーン市から1420万ユーロ購入し、この「エリート音楽家育成のための」新しいインターナショナルスクールの設立を計画したと言うものだった。

リチャード・Cはロシアのオリガルヒのマネー・ロンダリングを引き受け、インターナショナルスクールはただの隠れ蓑に過ぎず、15年経過後にはこのパビリオンを超高級住宅として転売して膨大な利益を出そうとしているというのである。

学長を解任されたヨルゲン・Kはもちろん、当時の経営陣に極度に批判的であり、これが事実かどうかは私には確かめようもなかった。しかし、音楽学校の経営にはほとんど素人としか言えないドイツの運営会社(しかも本社の所在地はロンドンとなっている)が極めて付け焼き刃で人選もきちんと行わず、膨大な予算を湯水のように浪費して、学校としてはまだまったく成果の出ていない音楽学校を経営している様は、私には異様にしか見えず、この記事がまったくのガセネタだとは言い切れないのであった。

2013年4月、ウィーンに戻った後私は校長代行であったクルト・Bと話し合いを持って、この記事について率直に質問したが、校長の答えは「本校は地上げなどとは何の関係もない」とのことだった。そして、クルト・Bはその後の生徒募集についても積極的に行ってほしいと熱心に要請してきた。日本からの生徒は是非増やしていきたいとの考えだとのことだった。

2018年1月28日日曜日

ヨーロッパのインターナショナルスクールについて(5)

3月下旬、私はインターナショナルスクールのプロモーションのためにクリスティン・Wとともに日本での大規模な青少年のための音楽祭に赴いた。世界各国から音楽を学ぶ青少年の集まるこの音楽祭の重要性はすでに前年の暮れからクリスティン・Wのほかホルヘ・N、クルト・Bなどにも力説しておいたのにインターナショナルスクールは何の準備もしておらず、ホテルも予約されていなかった。この音楽祭は地方都市で行われたため周辺のホテルは年明けにはすでに満室となっており、インターナショナルスクールの事務が3月にシングルルーム2つを探した時には50km近く離れた小さな温泉地のホテルしか空いていなかった。インターナショナルスクールは1泊が5万円ほどとなる定員4名の和室二部屋を、クリスティン・Wと私のために予約し、私たちは3日間、片道1時間ほどかけてタクシーで音楽祭の会場に作ったブースに通うこととなった。

しかし、急ごしらえで作ったかんたんなパンフレットの他はすべて英語の資料ばかりで、当初要求したプロモーションビデオやデジタルサイネージ、音響セットなどは準備が間に合わず、Wと二人では十分な対応はできなかった。

音楽祭の最終日、Wと私はこの音楽祭のメインとなるオーケストラのコンサートを聴いた。Wと並んで座席に座ってオーケストラがチューニングを始めると、Wが信じられないことを私に聞いた。

"What is the name of round brass instrument behind violins?"

私は耳を疑いながら答えた。

"French...horn..."

宿に帰ると、沢山のメールの中にシンシアからの連絡があった。
「学校についてオーストリアの雑誌に記事が載ったので知らせたい」
とのことであった。




2018年1月17日水曜日

ヨーロッパのインターナショナルスクールについて(4)

ヨーロッパのインターナショナルスクールすべてがこのインターナショナルスクールのように怪しげな経営だと言い切るつもりはない。しかし、英語圏以外で英語で教育を行っている新興のインターナショナルスクールの多くは、このインターナショナルスクールと同じように教育に経験の乏しいマネージメント会社がアジアやロシアなど新興国の富裕層の師弟をターゲットに行っている営利事業である。

2013年2月、私は本来大変多忙であった。

中旬にはその年の夏にエストニアで行われる音楽祭の打ち合わせのためにタリンを訪問する予定になっていた。月末から3月始めにかけてはフランスとドイツでの仕事が決まっていた。その間を縫うように、日本からインターナショナルスクールの訪問する家族を案内することになったので、日本からヘルシンキとタリンを経由して向かうはずだったウィーンに本来よりも2週間早く行かなければならなくなって、日本での様々な予定を変更しなくてはならなくなった。しかし、インターナショナルスクールとの契約ができたので前年の秋から事実上無償コンサルタント状態だった分も含めて報酬も支払われ、私としても多少経費がかかっても時間を割いて学校視察の案内をすることにしたのだった。2月初め学生事務担当者のハイドロン・Kにメールで学校訪問について連絡した。クルト・B とは当初ボーディング施設に家族で宿泊してもかまわないという話だったのだが、その間にシンガポールからの見学者が入ってしまって両親は一緒に泊まれないというので、市内に別にアパートを用意した。私にとって厄介だったのはほとんどすべての関係者がドイツ語ができるので、連絡事項については本来はドイツ語のほうが私にとっては簡単なのだけど、数人いるドイツ語の分からないスタッフのためにメールでの連絡や会議での話はすべて英語でなくてはならなかった点で、急ぎのメールでも辞書を引き引き英語で書いて送らなくてはならなかった。ドイツ語なら辞書など見なくても良いからすぐに書いて送れる。例えば学校見学に関してハイドロン・Kに送るメールは、クリスティン・W以外は全員ドイツ語がわかるのに英語で書く必要があった。

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日本から学校訪問した小学生は、その場でピアノの実技試験も受けることになったので、練習室の確保などを依頼したのだが、メールを英語で書いて全員にCCにしているのにもかかわらず、非常に返事も遅く、段取りも悪く、実際日本からの家族がウィーンについてみると、打ち合わせ通りに準備ができていないことばかりだった。実はネイティブスピーカー以外の何人かは、私を含めて英語で事務連絡をするために文案を考えたり、スペルや文法ミスをしないでそれを書いて送るためにドイツ語よりもずっと手間を掛けて行っていて、そのことが学校内でのコミュニケーションを非常に混乱させているのだった。この学校はドイツ語圏のウィーンにあるのに、全くドイツ語を理解しないスタッフが数人いるのだ!
日本からの小学生は音楽アカデミーのフォルカー・Hとエリザベート・Wの前でオーディションを受けて、その場で入学を許可すると言い渡された。フォルカー・Hは音楽の能力のほうが大事で、学校の成績や英語の能力は二の次だとはっきりと言った。私は少々困惑した。何故かと言うともう一人の入学希望者であるイギリス留学中の日本の中学生は英語は大変良くできるし成績も抜群だが、チェロの演奏はアマチュアレベルだったからである。

ギュンター・Bもクルト・Bも「試験」の場には姿を表さなかった。クリスティン・Kはウィーンには現れなかった。しかし、間もなくフォルカー・Hとギュンター・Bの対立が決定的となり、フォルカー・Hも半年足らずでこの学校を去ることとなった。私がフランスとドイツから戻るとフォルカー・Hは「ヘッド・オブ・ミュージックアカデミー」を解任されていた。

2018年1月9日火曜日

ヨーロッパのインターナショナルスクールについて(3)

ヨーロッパのインターナショナルスクールすべてがこのインターナショナルスクールのように怪しげな経営だと言い切るつもりはない。しかし、英語圏以外で英語で教育を行っている新興のインターナショナルスクールの多くは、このインターナショナルスクールと同じように教育に経験の乏しいマネージメント会社がアジアやロシアなど新興国の富裕層の師弟をターゲットに行っている営利事業である。

2013年1月、ウィーンのインターナショナルスクールでは学期休みを前に数週間校長不在の状況が続いていた。学校運営企業はベルリンから数人のスタッフを毎週ウィーンに送り込んで交代で穴を塞いでいたが、そのために膨大な経費が発生しているという話をシンシアから聞いた。

すでに日本で面談した二人がこの学校に入学を希望していたが、私はクリスティン・Kに「Nが解任されたのに校長も決まらない状況で、私はまだ学校と契約もされず、経費も支払われないのであればもう協力はできない」と言うメールを送った。すると、この学校で働いていたシンシアとKから「すぐに投資家のビル・Dと電話で話して欲しい」という連絡が来た。スカイプでDと話し合い、それまでの経過と様々な問題点について報告した。ヨルゲン・Kからホルヘ・Nにはどうやらまともな引き継ぎはされておらず、学校の当初のコンセプトについても具体的な説明がされていないような印象を受けたことも話した。またシンシア以外音楽の専門知識を持ったスタッフがおらずこれでは「ミュージックアカデミー」の運営は不可能であるとの意見も述べた。すると1月31日、クリスティン・Kから「すぐに契約をしたいのでウィーンに戻ってきて欲しい」という連絡が来た。私は即座にウィーン行きの便を予約して、2月1日にウィーンに戻った。

ベルリンの学校運営企業は2月はじめにギュンター・Bを暫定的に校長代理としてウィーンの学校に派遣してきた。ギュンター・Bはシンガポールに駐在経験があって初代校長のヨルゲン・Kや「ヘッド・オブ・ミュージックアカデミー」のフォルカー・Hとともにこのインターナショナルスクールの準備段階から計画と運営に関わってきたが、本来教育者の経験はなくてマネージャーであることから学校運営企業は補佐としてもう一人のマネージャー、クルト・Bを副校長として、またミヒャエル・Wをもう一人の補佐として交代でウィーンに出張させ、三人が交代で業務に当たるようになった。

ウィーンに戻ったその足でインターナショナルスクールを訪ねた私はこうして、本来の学校側の代理人でパーソナルマネージャーであるクリスティン・Kとではなくクルト・Bと契約を結ぶことになった。そして、契約の内容もアンサンブルやオーケストラの指導ではなく、日本語地域でのマーケティング担当者で「ミュージックアンバサダー」という名称のポジションが用意され、報酬は全額固定ではなく毎月1500ユーロとリクルートした生徒一人あたり初年度学費の10%(寮費は含まれない)、必要経費は当面学校運営企業が必要と認める経費を支払うというものになった。2月中旬には小学生と両親が学校を見学にやってくることとなり、私はすぐに三人のための旅行や見学の手配を行うこととなった。そして、日本でのマーケティング活動の第一歩は、3月に長野で行われる大規模なクラシック音楽のイベントに参加することとなったが、このイベントでのプロモーションはすでに9月に提案してあったものであった。しかし、2月になって急遽イベントに参加することが正式に決まったためホテルの予約すら困難で、結局会場からタクシーで1時間もかかる、小さな温泉地にようやく私とクリスティン・Wのための二人の部屋が確保できた。温泉地なので本来四人用の和室を二部屋手配するという非常に高く付くものとなった。

2月中旬、日本からこのインターナショナルスクールを事前見学に来た親子を案内中に、校長代理のギュンター・Bと「ヘッド・オブ・ミュージックアカデミー」のフォルカー・Hの対立が目立つようになってきた。二人は生徒たちや来客の前で口汚く罵り合うことが多くなり、私もそうした二人の怒鳴り合いを何度か目にした。

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人名が多くなったので、以下に一度整理する。

投資家:
ビル・D(世界的な衛生用品メーカーの会長)
リチャード・C(グローバルな投資家)
ウィルソン・G(シンガポールのデンタルクリニックチェーンの創始者)
アレキサンダー・O(ベルリンにある学校運営企業の代表、2014年に一時的に校長となる)。

校長たち:
ヨルゲン・K(初代校長、2012年7月インターナショナルスクールのオープン前に解任される。ドイツのジャーナリストでアジア駐在を経験)
ホルヘ・N(二人目の校長、2012年夏に学校運営企業によって任命され、2013年1月に解任される)
ギュンター・B(三人目の校長でビジネスマン。シンガポールでマネージャーの経験があり、当初より学校設立に関わるが初代、二代校長を始め「ヘッド・オブ・ミュージックアカデミー」のフォルカー・Hなどと次々に対立。2014年3月に解任される)。
クルト・B(2013年2月から2014年3月までの副校長。2013年秋以降次第にウィーンには現れなくなる)
アレキサンダー・O(ベルリンにある学校運営企業の代表、2014年に一時的に校長となる)。
クリス・G(2014年1月にボーディングマネージャーとして雇われるが同年夏に校長となる。現在も校長)。

スタッフ:
ミヒャエル・W(マネージャー。私の契約更新時の学校運営企業の代理人。2014年4月に解任される)
ドリス・H(会計責任者)
ハイドロン・K(学生事務担当者)
シンシア・P(音楽アカデミー代表者。私の音大時代からの友人。2012年12月に音楽アカデミーのスタッフとなり、その後音楽アカデミーの代表を務める。2014年8月に退職)。

音楽アカデミー:
フォルカー・H(初代の「ヘッド・オブ・ミュージックアカデミー」2012年暮れに現れ、2013年3月ギュンター・Bと対立して辞任する)。
ヨハンネス・M(2013年夏にフォルカー・Hの後任としてウィーン少年合唱団附属小学校からヘッドハンティングされるが2014年6月に退職)
ミッチ・S(2016年頃から「ヘッド・オブ・ミュージックアカデミー」となり、2018年1月に更迭される)。
アレキサンダー・G(ロシア出身の有名ヴァイオリニストだが2013年秋に投資家のウィルソン・Gと対立し辞任)
ニコラウス・K(ドイツ人ヴァイオリニスト。2012年から音楽アカデミーで教えるが、2015年に退職)。






2018年1月5日金曜日

ヨーロッパのインターナショナルスクールについて(2)

ヨーロッパのインターナショナルスクールすべてがこのインターナショナルスクールのように怪しげな経営だと言い切るつもりはない。しかし、英語圏以外で英語で教育を行っている新興のインターナショナルスクールの多くは、このインターナショナルスクールと同じように教育に経験の乏しいマネージメント会社がアジアやロシアなど新興国の富裕層の師弟をターゲットに行っている営利事業である。

2012年末、日本に帰国した私は二人の留学希望の小中学生の両親と面談した。一人はピアノを演奏する11歳の小学生で家族とともに海外で音楽に専念することを希望しており、もうひとりはチェロを演奏する13歳の中学生で、すでにイギリスのボーディングスクールに留学中だが転校を希望していた。ウィーンのボーディングスクールで英語で勉強を続けながらウィーン・フィルの首席奏者からチェロのレッスンを受けることにとても期待を抱いていたこともある。

新しいインターナショナルスクールとまだ契約もしていなかった私は必ずしもこの学校だけを推薦するのではなく、特に小学生にはもしウィーンで音楽をやりながら勉強したいのならウィーン少年合唱団の小学校、中等学校も候補に入れてはどうかと薦めた。新しいインターナショナルスクールの授業料は300万円近く、ボーディングもいれると年間700万円近い金額となる。

それに対してウィーン少年合唱団の学費は小学校で275ユーロ、上級学校で250ユーロほどだ(昼食費込み、年に10回)。同じ私立でも新しいインターナショナルスクールとの差はなんと20倍にもなる。ウィーン少年合唱団の入学試験は主に歌の試験だけで、ソルフェージュなんて日本の音楽系の小中学校と比べれば恐ろしく簡単だし、基本的に面接だけで学科の試験はない。

ウィーン少年合唱団は他のブログにも書いたように国立公園のアウガルテンの中にあり、その環境は申し分ない。合唱団は変声期を迎えると容赦なくクビになってしまうのだけど、いまは女の子も入れる上級学校がある。しかし、学科の成績は一般の小学校、中等学校にくらべてあまり芳しくない。したがって、将来音楽の道に進まないで一般の進学をする場合は入れる大学などは限られてしまう。
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2013年、ウィーンのインターナショナルスクールではフォルカー・Hが常勤の”Head of Music"となり、Hの子どもたちもプライマリースクールで校長のNの子どもたちと一緒に通い始めた。しかし、年明け早々に行われた投資家たちの理事会では学校運営会社に苦情が殺到していた。この学校の初年度の生徒数の目標は60人、それに対して実際には全学年合わせて20人ほどの生徒しか集まっていなかったのである。理事会の苦情を受けて学校運営会社は2週間ほどのうちに二人目の校長であるホルヘ・Nを解任してしまった。はじめのうち引きつった顔で学校に来ていたホルヘ・Nは1ヶ月ほどすると子どもたちを連れて姿を消してしまった。

後任の校長が誰になるかわからないまま、私は再び契約を待たされることになった。クリスティン・Wは「新しい校長が誰になるかわからないと契約できない」と言ってきたし、契約書の内容や条件も一転二転してわけのわからないものだった。

2018年1月4日木曜日

ヨーロッパのインターナショナルスクールについて(1)

ヨーロッパのインターナショナルスクールすべてがこのインターナショナルスクールのように怪しげな経営だと言い切るつもりはない。しかし、英語圏以外で英語で教育を行っている新興のインターナショナルスクールの多くは、このインターナショナルスクールと同じように教育に経験の乏しい学校運営会社がアジアやロシアなど新興国の富裕層の師弟をターゲットにに行っている営利事業である。


ウィーンに新しくできるインターナショナルスクールの運営に協力してくれないかと友人のシンシアから誘われたのは2012年の夏のことだった。

そのインターナショナルスクールは、最高水準の音楽教育を行いながらIB(国際バカロレア資格)が取れるというユニークな教育を目指しているとのことだった。誰でも知っているグローバルな衛生用品の会社の会長が投資家の一人で、ウィーンの英字新聞の編集長に適任な人材を探してほしいと依頼してきたことから、その英字新聞の記者をしていたシンシアに声がかかり、シンシアはアンサンブルの指導やアートマネジメントの心得がある私に強力を求めてきたのだ。

8月の末、シンシアとともに9月から新しくオープンするキャンパスに校長のホルヘ・Nを訪ねた。キャンパスはウィーンの高級住宅街の中の先指摘にも大変有名な産科病棟の一部を買い取って作られていた。ホルヘ・Nは北欧と南米系のハーフでインターナショナルスクールの経営に経験があるということで、後でわかったことだが、この時点ですでに二人目の校長だった。初代校長に就任するはずだったヨルゲン・Kはマネージメントの学校運営会社によってすでに解任され、開校を数ヶ月前にして急遽Nが招かれたのだった。30分ほどの会見だったが、Nは訪問を大変喜んで「マネージメントには音楽の専門家が誰もいないのでぜひ協力して欲しい」と言うことだった。ウィーンにある学校の校長となるホルヘ・Nが一言もドイツ語ができないこと、「音楽の都」ウィーンに最高水準の音楽教育を行うインターナショナルスクールを設立するのに「マネージメントに音楽の専門家が誰もいない」というのにはいささかびっくりした。この学校は午後3時頃までは一般の科目の授業を英語で行い、そのあと「音楽アカデミー」のレッスンを行うことになっていたのだが、「音楽アカデミー」の先生はすべて外部の超有名講師が行い、その中にはフルートのヴォルフガング・シュルツやチェリストのフランツ・バルトロメイなどウィーン・フィルの首席奏者、イルディコ・ライモンディのような有名オペラ歌手も含まれていた。

私は音楽マネージメントの経験があるが、専門は音楽を教えることなので、是非アンサンブルやオーケストラの指導を任せてほしいと言って、校長のNは了承したとのことだった。そして、条件面の交渉や契約はパーソナルマネージャーのクリスティン・Wが行うから、連絡を待ってほしいとのことになった。Wは上海在住の中国人女性で、投資家の一人である会長の元でかつて秘書を務めたことがあることから、この学校のマネージメントを任された学校運営企業とは別にパーソナルマネージャーとアジア地域のマーケティングを任されていた。

授業が始まる9月になっても校長からもクリスティン・Wからもなかなか連絡がなかった。10月になってWからの電子メールが頻繁に届くようになったが、内容は学校での教育内容の話ではなくて「日本からどのくらいの生徒が集められるか」という質問がほとんどだった。どうやら、学校が標榜しているような教育ができる人材を集めることよりも、まずは生徒を集めることが先決のようだった。私は「自分が教えている学校であれば生徒を誘うこともできるが、そうでなければ生徒の募集などできない」と答えた。

その間にドイツ人の指揮者フォルカー・Hが「ヘッド・オブ・ミュージックアカデミー」に就任したとの連絡を受けた。音楽関係の提案はすべてフォルカー・Hを通してほしいとのことだったが、クリスティン・W同様、フォルカー・Hもほとんど学校に現れることはなく、次回の面談は11月末にセッティングされ、そこで条件などが話し合われることになった。

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2012年11月末に、開校してまだ3ヶ月のキャンパスで私とシンシアはおのおのクリスティン・Wと面談した。Wはシンシアには主にウィーンを中心としたヨーロッパ、私には北東アジアでのマーケティングに協力してほしいとのことで、当初の校長との話とは違い音楽や音楽マネージメントについてよりもドイツ語や英語、日本語地域でのマーケティング協力者を求めているという話になってきた。この時点でシンシアと私は顔を見合わせたが、投資家の会長とも連絡を取りつつ協力しようという話になった。

校長のNの子どもたちはこの学校に通うようになっていた。

シンシアは12月からスタッフとなることが決まったが、私はWとの条件面での交渉がまとまらず、契約は年明けに持ち越しとなった。しかし、年末帰国するにあたり、このインターナショナルスクールのパンフレットをごっそり持って帰ることになった。

その後、シンシアからはこの学校の成り立ちについていくつかの捕捉の情報がもたらされた。この学校の出資者には衛生用品会社の会長の他にシンガポールの歯科医師、ニュージーランド人の資産家リチャード・C、ドイツの投資家、アレックス・Oなどがいる。現在はアレックス・Oの経営する、ロンドンに本社を置く学校運営企業によって運営されている。これらの出資者の共通点はシンガポールでビジネスをおこなっていることで、ドイツ人の指揮者フォルカー・Hもシンガポールのナンヤン大学の一部である、ナンヤン音楽アカデミーで指揮者をしていたことから招かれたものだった。

シンシアは契約書の原本をドイツ語で作ること、所轄裁判所をウィーンとすることを粘り強く交渉したが結局私もシンシアも契約書は英語、所轄裁判所はロンドンとする契約をせざるを得なかった。このことは、もしトラブルが発生した場合には、私たちはほぼ泣き寝入りしなくてはならないことを意味する。ウィーンや東京に住んでいて、弁護士を雇ってロンドンで裁判を進めるのは、裁判経費が訴訟額の何倍にもなるからだ。


2016年10月9日日曜日

武蔵野音楽大学 福井直敬学長への公開質問状


私は昭和56年4月武蔵野音楽大学音楽学部器楽学科に入学しました(トロンボーン専攻、学籍番号A11755)。

大学に入学した者であれば誰でも同じだと思いますが、私も充実した楽しいキャンパスライフを夢見て胸をふくらませておりました。

しかしながら私の夢は入学後まもなく無残に打ち砕かれることとなりまし た。入間校地体育館で行われた管楽器新入生歓迎コンパは「歓迎」とは名ばかりの残酷な新入生いびりの場であり新入生一人一人が舞台上に置かれた「お立ち台」と名付けられた指揮台に登って学籍番号を絶叫し、大きな丼に満たされたビール、ウイスキー、日本酒にわさびや辛子、残飯や吸い殻までを混ぜ合わせた物を飲 まなくてはならないという儀式でした。

さらに悪夢であったのは男子新入生は夏のトロンボーン会の合宿で陰茎に虫さされの薬「キンカン」を塗られるという話を聞いたときからです。私は「そのようなことが行われるのなら合宿には参加しない」と表明しまし たが、以来連日江古田練習室に呼び出され、「武蔵野音楽大学トロンボー ン会の伝統を破壊するのか」などと上級生に土下座を強要されるなどのいじめが続きました。担当教官であった木下利男教授からも「そのような理由で合宿に参加しないのはお前が初めてだ」と叱責されました。

翌年、2年生となった私は新入生歓迎コンパでの飲酒強要行為をやめさせ るよう学生部の古庄先生、仲地先生に個人的に文書で申し入れ、部分的にこれに成功しましたが、これに恨みを持った一部同級生らから夏のオーケストラ合宿時に私を押さえつけ無理矢理陰茎にキンカンを塗ったことから 酷い火傷となり、30年以上たった今でも消えることのない黒い傷となっています。

ご存じの通り「キンカン」はアンモニアを含む劇薬であり、粘膜に使用してはならないことは使用上の注意にも大きく書かれています。また、この様な薬品を集団で陰部に塗布するなどと言うことは教育の府でありうべか らざることであり、ましてや一部教員が学生にこうした行為をおもしろ半 分に焚きつけたことは、許されないことです。

その後私は大きな心の傷を負って数ヶ月後に武蔵野音楽大学を自主退学せざるを得なくなりました。私の受けた行為は共謀共同正犯による暴行障害 事件であり、民事のみならず刑事事件として当事者らの刑事処罰が行われて然るべき物です。

この件では実際は被害者である私が「武蔵野音楽大学トロンボーン会 の伝統を壊した」などとその後長きにわたって非難され、江古田校地の練習室では私の写真がダーツの的になっていたとまで聞いています。また、キンカンを拒否したことで先輩との関係が絶たれその後の人生においても 悪評を立てられるなど、様々な不利益を受けました。

ところが最近になって多くの武蔵野音楽大学卒業生らと交流するようになり、この様な犯罪行為が今でも行われていることがわかりました。これは許されざることであり、刑事事件として、また民事事件として訴追されるべきことです。


2012年以来、武蔵野音楽大学 福井直敬学長と理事、監事に対してこの件について説明し、当時納入した学費を返還することも要求しましたが、その後何の回答もなく、また学費の返還も行われていないことから、この度インターネット上に公開質問状を掲示して福井学長の回答を求めることとしました。

1.武蔵野音楽大学では、新入生の性器にキンカンを塗ったり悪戯をするという行為が、いつからどの学科で行われていたのでしょうか?。

2.もし、まだ行われているとしたら、暴行傷害事件が学内で継続的に行われていることを、学長及び理事会はどのように考えているのでしょう?

3.このような犯罪行為の被害者は合計で何人くらいになるのでしょうか?

4.武蔵野音楽大学での暴行傷害事件の被害者の中には肉体的、精神的に傷害を受けた人はどのくらいいるのでしょうか?

5.武蔵野音楽大学での暴行傷害事件によって退学を余儀なくされた方や、後遺症に悩まされている方はいないのでしょうか?

6.武蔵野音楽大学は学内で現役の教授が焚き付ける様な形で長年このような行為が行われていた ことに関して、どう考えるのでしょうか?

7.武蔵野音楽大学は、大学としてこの件を謝罪し、正確な被害者の数を調査し、被害者に賠償を行うつもりはないのでしょうか?

以上、このブログ上に福井学長自身が実名で回答することを求め、回答がない場合は定期的にその旨をツイッターなどで発信します。

また、武蔵野音楽大学、その他の音楽大学で同様な暴力行為、セクハラ、パワハラを受けた方からの情報を受け付けます。